メディア研究や科学史を勉強すると、必ず出てくる主題として「メディア決定論・技術決定論」というものがある。
この主張は、メディアや技術が社会の容態を決定するというものなのだが、一方で「エレクトリック・メディアは情報技術の発達によって変化するだけではなく、国家や資本の編制力から、市民、あるいは大衆の想像力にいたる、複合的で重層的な社会の諸力の錯綜した結果として、今日のような姿に固定化させられてきた」(水越伸)という主張もあるように、メディアや技術が一方的に社会を決定付けるものではない。
つまり、あらゆるメディアや技術はそれ自体で存在するのではなく、社会・文脈の中に埋め込まれることによって、意味や価値を持つ。
この考え方は、広告テクノロジー業界に身をおくと、ついつい、メディア・技術決定論に陥りがちな状況の中、それを使いこなすのはこれまた社会の中に埋め込まれている我々自身であり、自分たちが価値をどのように見出すかによってメディア・技術・ツール群の価値も変わってくるかのように思うのだ。
それゆえ、メディア・技術・ツール群の使い方を狭めてしまうのも、自分たち自身の思考・志向の狭さと関係するし、広める際はその逆のことが言えよう。
だから、使いこなすためには常に、ゼロベースで、自由な発想にならないといけなない。
使われるより、使いこなせ、とちょっと古臭いけど、広告テクノロジーが氾濫しているからこそ、今大事な気がする。
このテーマについて興味がある方は、まずは、教科書的なものとして(というか教科書ですが)、『メディア論』 をお読みになることをお勧めします。
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