とある広告業界の重鎮が
「若者の形容詞の語彙が貧しくなり・・・ 商品の良さを口コミでは伝わりにくくなっている!」
って言っていたらしく、それについて、昔の後輩から「どう思います?」って聞かれた。
で僕が真っ先に思いついたのが、クレオール語とかピジン語。
その昔、植民地時代。
アフリカその他から多くの黒人奴隷がつれてこられた。
その奴隷売買には一定のルールがあって、主人に徒党を組んで反抗しないように
同じ部族=同じ言語を使う人々を同時に雇わないようにしていたらしい。
ところが、主人=英語orフランス語などを使うわけで、当初は奴隷同士が互いにコトバがわからなくても、主人のコトバを拾ってみんなが会話しだすようになる。そこで人工的な言語が生まれるようになる。
なので、語彙の数って単純にはコミュニケーションには関係がない。
ようは「コミュニケーションしたいかどうか」にある。
戻って最初の言葉。
この一言は、広告とかマーケティングってものは、企業の「コミュニケーションしたい、
っていう活動なんだ」ってことを離れて、広告のクリエイティビティ、なんてものを、悲観論っぽい、国語論的な観点から述べているにすぎないって気がしてしまった。
僕自身は、人間はどこまでいっても言語によって構成された生物、である、と思っている。
言語というシステムは社会で構成されているものであり、コミュニケーションとはそのシステムの中で発生するトラフィックであり、それを発生させるのは、結局は人間という構成体なのだから。つまりこれにおいて、語彙力や単語数などといったものは、あくまでも相対的なものであって、それによってコミュニケーションを阻害するとはいえないのである。
と思う。
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